幸せって何?
今日の11時のレッスンで、「幸せって何だ」っていう話題になりました。
私はこう思いました。私たちはみんな、今持っていないものとか、たりないものとか、理想に達してないこととか、やってもらえてないこととか、自分でできてないこととか、そういうものを求めることが人生の目的になりやすくて、そうなると、どうしても、あれがない、これがたりない、何かが理想に達してない、誰かがこういう風にやってくれない、自分がこういう風にできない、とかいうことが、思いの中心にきやすくなると思うんです。そういうことがあるからこそ、前へ向かってがんばれたり、努力したり、成長したりできるといえば、そうなんだけど、でも、こういった、「~がたりない」という思いは、言い方を変えると、「不平」を言う動機になりやすいんだと思います。
だから、私たちは、ないものばかりに目をやって「不平」の思いに目を向けるんじゃなくって、「あるもの」にも目を向けて、感謝することも、同じようにできるはずだと思うんです。実は、「ないもの」より「あるもの」の方が多いはずなんです。どんなに、お金があって、どんなに見た目が完璧で、どんなに性格がよくって、どんなに頭がよくっても、そんな人だって「ないもの」はあって、そんな人だって、「ないもの」に目がいっている限りは、幸せにはなれないと思うんです。
反対に、どんなに世間的にやばい状態の人でも、なにか「あるもの」ってのはあるんです。お腹いっぱいにご飯がたべられること、雨露しのげる住居があること、寒いときに着るコートがあること、ストーブがあること、おふとんがあること、健康なこと、究極、目が二つあること、声が出ること、呼吸ができること、そんなことに、ムリやりじゃなくて、本気で感謝できたら、それは、「幸せ」なんだと思います。キリスト教では、私たちがもっているすべてのものは、もつ権利もないほどの小さきものなのに、神様がくれたって、ありがたい、って思う考えがあるから、この気持ちはもちやすいんですけど・・・普通は、どうしても「あたりまえ」って思っちゃうと思うんです。でも、「あたりまえ」を「ありがたい」って思えると、すごく毎日一瞬一瞬が幸せなんじゃないかって思うんです。
結局幸せって、なにかがあるから、とか、誰かが何かしてくれたから、っとかいう外的な環境から来るんじゃなくて、どんな状況にあっても、自分が少しでもあるものを感謝する心のあり方をマスターしていれば、どんなときでも幸せなんじゃないかな、って思うんです。
私の知り合いが、ずっと前に言ってました。彼女はベトナムに行ったんですけど、ベトナムのある小さい村に行ったそうです。とても貧しい村で、日本人が来たというので、みんなが集まって来たそうです。で、そこの村人はみんな、食べるものがなくて、いつもお腹がすいていて、苦しんでいたそうです。そのうちの、一人の女の人が、その人の赤ちゃんを連れてきて、この子を日本に連れて行ってくれ、と頼んだそうです。それは、養子にしてくれ、とか、ちょっと面倒をみてくれ、じゃなくて、なんでもいいから、日本に連れて行ってくれということだったそうです。私達から見ると、ずい分ひどい母親にみえるけど、そうではなくて、食べるものがなくて来るしんでいる人には、「食べるものさえあれば、私達は幸せになれるに違いない」と信じれるということです。その母親は、自分の子供が、食べるものさえあれば、幸せになれると思って、日本に行けば幸せになれる、と信じたんです。でも、私達は、もうよくわかってますよね。いつでもお腹いっぱい食べられる私達、でも、それだけでは幸せにはなれませんよね。でも、同じように、私達も、なにかないものがあると、これさえあれば幸せになれる、と思いがちなんだと思います。でも、それが手に入っても、やっぱり幸せにはならないんです。
だから、なにを手に入れても幸せにはなりゃあしないわけだ・・・今この状態で、今持っていないものに目を向けるんじゃあなくて、今持っているものに、本気で満足できたら、それが、幸せなんじゃあないか、と思うわけです。
今、これを読んでくれているあなた、あなたが、こんな、字ばっかりでつまらなそうな、ブログをここまで読んでくれていることに感謝します。
私がこのブログを持てたこと、それに文章を書き入れることができること、そしてそれができるパソコンを買うお金があったこと、それを動かす電気があること、感謝します。
こんな私の学校に通ってくれている生徒さん達、働いてくれている先生達、感謝します。
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